Serendipity

睡眠と太陽とおいしいごはんがあればそれでしあわせ。ときどき本や映画の話。

【本】もがき、あがいたことが赤裸裸に綴られた一冊|『失われた感覚を求めて』

 

失われた感覚を求めて

失われた感覚を求めて

 

読んだ本、観た映画のことをすぐに忘れてしまうタイプ。

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待ち合わせの空き時間に立ち寄った門前仲町の小さな本屋さんで一際目を引くPOPがある。POPに導かれて本を手にすると、それはたいてい同じ出版社の本だった。

自由が丘のほがらかな出版社、ミシマ社。本書の著者である三島邦弘さんが2006年、単身立ち上げた出版社だ。この本では内田樹さんや、益田ミリさんなどの本を刊行している同社が、「日本全国に出版社を」という結論のもと活動拠点を移し、試行錯誤していく過程が赤裸裸に綴られている。

前半部分では東京一極集中への疑問、とりわけ出版業は業界を志す若者のほぼ全員が、東京でないと仕事ができないと思っていると語られている。東日本大震災直後の2011年4月、ミシマ社は京都・城陽にオフィスを構えニ拠点体制をはじめた。結果を先にいうと、2年弱の活動で城陽オフィスを撤退し街の中心である京都市内にオフィスを移転した。

この撤退についてそれらしき理由を述べることも(むしろ何も述べないことも)可能だっただろうに、著者は仮説を立てながら是非を問いただしている。私が特になるほどと思ったのは次の部分。

脱記号をめざした結果、いっそう記号にしがみつかなければならないという反転した事態が待っていたのだ。(p.84)

記号にしがみつくのは、誰のためでもない自分保身のためである。このところ本当に思うのだけど、社会というのは思っている以上に失敗に寛容である。記号なんてそもそも実はあまり意味を持たないのだからしがみつくことも、そこに(自分にとって)正統な理由をつけることも本当は必要ないのだろうが、そこに至るまでのもやもやを正直な気持ちで綴っている。ここにこの本にかける三島さんの真摯さ、本の言葉を借りると全身全霊さが伝わってくる。

エピローグでは、さまざまな実践を経てのもがき、あがいた体験を少し俯瞰して書いているのが印象的だった。『感覚だけの時代から言語化のときを経て、再び、感覚を取り戻す』まさしくここまでの行動を一度言語化して、感覚を取り戻している過程なのだろうと前向きな気持ちになり本を閉じた。このあがきの記録は、静かな勇気を与えるのではないかと思う。

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